長岡市悠久山蒼柴神社の魚雷と機雷

蒼柴神社の魚雷と機雷

蒼柴神社の魚雷と機雷の写真を紹介します。 魚雷と機雷は、蒼柴神社本社の左裏の、戊辰戦争で亡くなった長岡藩士を奉っている所に置いてあります。ちょうど社務所の裏手になります。(蒼柴神社については、悠久山蒼柴神社で紹介します。)

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悠久山蒼柴神社の魚雷頭部。向こうに機雷も見える。
写真1
悠久山蒼柴神社の魚雷頭部上面。中に木材が入っているのがわかる。
写真2
悠久山蒼柴神社の魚雷。戊辰戦争で亡くなった長岡藩士の墓石が並んでいる。米百俵とゆかりが深い。
写真3
悠久山蒼柴神社の魚雷尾部。4枚2連スクリューである。
写真4
悠久山蒼柴神社の魚雷エンジン部。錆びて崩れかかっており、内部のエンジンが見える。
写真5
悠久山蒼柴神社の魚雷底面。腐食している。
写真6
悠久山蒼柴神社の魚雷底面。腐食している。
写真7
悠久山蒼柴神社の機雷。向こうに魚雷も見える。
写真8

写真1、2:悠久山蒼柴神社の魚雷頭部

写真1は魚雷頭部です。 兵器のことは素人ですが、穴の開いている所はきっと信管が装着される所でしょう。 写真2は頭部上面です。ここは錆びて穴が開いており、中には丸太が入っているのが見えます。たぶん、火薬を抜いた分の重さを釣り合わせる為に木材を装填したのだと思います。

写真3:蒼柴神社の魚雷と戊辰戦争で亡くなった長岡藩士の墓石

写真3は戊辰戦争で亡くなった長岡藩士の墓石の向こうに横たわる魚雷の全景です。米百俵の故事はこの戊辰戦争後のことです。魚雷は全長5mあります。日本帝国海軍には酸素魚雷という秘密兵器があったそうですが、これはそれなのか違うのか、私には分かりません。

写真4:蒼柴神社の魚雷尾部

写真4は魚雷の尾部です。 4枚羽根2連のスクリューが見られます。写真を拡大すると、かなり腐食が進んでいることが分かります。

写真5:蒼柴神社の魚雷エンジン部

写真5は魚雷のエンジン部です。 腐食のため、内部のエンジンが覗けます。写真中央は燃料注入口でしょうか。

写真6、7:腐食の進んだ魚雷

写真6は魚雷体部の後ろ側です。ご覧のように腐食して穴が開いています。写真7は魚雷の底面です。長い間地面に置かれていたためか、残念なことにボロボロに腐食しています。早急の対策が必要だと思います。

写真8:蒼柴神社の機雷

写真8は機雷です。直径は約90cmあります。長岡市の夏の花火は全国的に有名ですが、その目玉の3尺玉とこの機雷は、大体同じ大きさのようです。

魚雷と機雷は、こんな風に置いてあります。由来を説明する立て札や、風雨を防ぐ設備はありません。 また、この赤い塗装は兵器の本来の塗装ではないと思います。単なる錆び止めでしょうか。

魚雷と機雷の名称

機雷に関して、あれそれこれ展覧会の管理人さんから教えていただきました。これは二号機雷といい、日露戦争時代の物だそうです。魚雷のほうは日露戦争から太平洋戦争まで各機種外観に特徴的なものがなく、なかなか特定できないそうです。

どうもありがとうございます。あれそれこれ展覧会には国内に現存する帝国陸海軍の兵器の展示場所が紹介されています。どうぞ、ご覧下さい。

魚雷と機雷の由来は?

この機雷と魚雷は、敗戦前に山本五十六元帥が私の母校県立長岡高校の前身、旧制長岡中学に寄贈した物ではないかと言われています。手元に史料がないので、正確な年月日は不明ですが、しばらく、旧制長岡中学の校門付近の校庭に設置されていました。 戦後のある時期、機雷や魚雷のような軍国的な物は県立高校に相応しくないということで、撤去され、悠久山蒼柴神社の裏に移されたそうです。

私が10数年前にこれを見つけた時は、神社の裏手に雨ざらしで放置されているという状態でした。現在は、それでも台座に据付けられており、「放置」と言うよりずいぶんよい状態で安置されていると思います。


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