悠久山蒼柴神社の魚雷と機雷の由来について、調査しています。 何か判明したらその都度ここで紹介します。
さっそく、平成13年8月17日午後、米百俵ゆかりの県立長岡高校を訪れてみました。 母校とは言え、卒業以来20年以上お邪魔しておらず、ドキドキしました。 受付にて訪問の趣旨を述べたところ、同窓会担当の先生が対応して下さいました。
まず、校舎2階にある長岡高校の資料室に案内していただきました。入り口は鍵とシャッターで閉ざされていました。この部屋に入ったのは在校中に1回あるだけです。様々な古い史料がありましたが、魚雷と機雷に関連する史料は発見できませんでした。 でも、案内して下さった先生にお話を伺うことが出来ました。先生は、長岡高校(旧制長岡中学)の卒業生だったのです。以下に要約を紹介します。
お話をしながら、先生は校舎の前を案内して下さいました。どの辺りに魚雷と機雷が置いてあったのか、当時の校舎はどんなだったかお話して下さいました。
続いて、市立中央図書館に行きました。いろいろ探しましたが、全く史料はありませんでした。
そこで、悠久山蒼柴神社を訪れてみました。
おみくじを引いたところ、「末吉」でした。
社務所でお仕事をされていた30才台の男性の方に、魚雷と機雷のことを尋ねてみました。 以下にお話の概略を紹介します。
魚雷と機雷が置いてある場所には、柱の土台のような物が作られていたので、屋根を作る予定がありますかと尋ねしたところ、その予定はあるが、はっきりしないとのことでした。
山本五十六元帥が旧制長岡中学に講演にいらっしゃったことを記録した物はないかインターネットで探していたところ、次の書物を新潟県立図書館(新潟市)で見つけました。
長岡高等学校百年史
新潟県立長岡高等学校創立百年記念事業実行委員会編 昭和46年10月3日発行(非売品) 北越印刷株式会社印刷
県立図書館に行き、この本を閲覧しました。 次の事柄が記載させていました。
しかし、これらの記載の中には、校舎に置いてあったはずの、魚雷と機雷に関することは全く触れられていませんでした。どこか校舎の写真の隅にでも写っていないのか、戦後の校舎建て替えの際に再発見されたエピソードのこと等何かないか探しましたが、ダメでした。
長岡高等学校百年史を編纂した新潟県立長岡高等学校創立百年記念事業実行委員会の方は、魚雷や機雷には関心がなかったのか、残念でした。
反町栄一氏は旧制長岡中学、海軍兵学校で山本五十六元帥の後輩だった方です。反町栄一氏の著作「人間山本五十六」は他の山本五十六元帥の伝記にしばしば引用されており、資料的価値が高いと思います。さっそく図書館で閲覧しました。
山本五十六元帥(当時海軍中将)は下記のごとく昭和10年に3回も長岡に帰省しています。前述の「長岡高等学校百年史」のところで紹介した2回とダブりますが、紹介します。
当時はもちろん上越新幹線はなく、上野と長岡間の交通はかなりの時間を要したと思います。また、1回目の帰省では2週間も滞在しています。まだ日米開戦は先のこととはいえ中国では戦闘が行われており、かなり緊迫した時勢だったはずですが、海軍中将は結構暇な稼業だと思いました。しかし、実際は当時干されていたらしいことが阿川弘之著の伝記に書いてありました。
残念ながら、反町栄一氏の著作「人間山本五十六」にも魚雷と機雷に関する記載はありませんでした。
今後も暇を見てはコツコツ調べていきますので、たまにはこのサイトを覗いて下さい。