米百俵

小泉純一郎首相の所信表明演説と山本五十六元帥

ここでは、小泉純一郎首相の所信表明演説(平成13年5月13日)で有名になった、米百俵の故事について紹介します。米百俵の故事の舞台は何を隠そう長岡市なのです。 魚雷や機雷とは直接関係ありませんが、県立長岡高等学校や山本五十六元帥について語る時には、米百俵の話を避けて通れません。なぜなら、もし米百俵がなければ、県立長岡高等学校や連合艦隊司令長官山本五十六元帥は存在しなかったからです。

なお、この米百俵の故事については長岡市役所のホームページに詳しく紹介されています。関心のある方はご覧下さい。

米百俵の概略

米百俵については、小学生の頃から郷土史で学習しました。まず、私が学習したことを簡単に紹介します。

江戸時代、長岡は牧野家という譜代大名が統治していました。戊辰戦争の際、会津藩討伐のために侵攻して来た西軍(新政府軍)に対して、長岡藩は国際法にのっとり中立を主張しました。しかし、これは薩長に全く聞き入れられず、やむなく会津藩と共に東軍(奥羽越列藩同盟)として戦わざるを得ませんでした。残念ながら戦さに破れ、長岡の城下町は焦土と化し、長岡藩は7万4千石から2万4千石に減封されました。
(「官軍」とか「賊軍」という不適切な用語を用いている書物もありますが、長岡ではそのような用語は使いません。「西軍」「東軍」という語が正解です。)

戦後の藩士の生活は窮乏を極めたため、支藩三根山藩から米百俵がお見舞いとして送られました。当時、藩政を担っていた大参事小林虎三郎は、将来のために教育の充実が第一であると考えていました。そして、彼はこの米百俵を藩士に分配せずに売却することを計画しました。その資金で学校を設立し、将来の長岡や日本を背負う人材を育成しようと考えたのです。当然自分達に分配されると思っていた長岡藩士達は断固反対しましたが、彼はこれをようやく説得して国漢学校を設立しました。そして、藩士の子弟のみならず、町民や農民の子弟も入学させて、後の長岡の教育の礎を築きました。

山本五十六元帥の母校である旧制長岡中学(後の県立長岡高等学校)はこの国漢学校の流れを汲んでいます。つまり、長岡藩士とその家族が米百俵を鱈腹食べていたら、山本五十六元帥も県立長岡高等学校もなかったかもしれません。

小泉首相の勘違い

ちょっと脱線

先の小泉首相の演説以来、構造改革には「痛みを伴う」とされ、米百俵の故事が引合いに出されます。今の苦しみや痛みに耐えて明日の日本を築かなければならないということです。でも、これは大きな勘違いです。ちょっと脱線しますが、このことについてお話します。

長岡藩士の高潔

昔の藩士は、身分制度や封建制度上、既得権保持者でした。だから、三根山藩から米百俵が送られてきた際も、困窮する町民や農民のことは考慮せずに、当然の既得権としてこの米にありつけると思ったのです。その藩士達を説得して既得権を放棄させて教育の充実を図った大参事小林虎三郎のリーダーシップと見識はもちろん尊敬に値します。でも、それよりも、大参事の説得を聞き入れ既得権を放棄した長岡藩士の高潔さに私は感銘します。

米百俵が語るもの

米百俵が語るものはふたつあります。ひとつは将来に備えた教育の重要性です。そしてもうひとつは 、既得権保持者こそ潔く既得権を放棄して今の苦しみや痛みに耐えなければならないというのことなのです。

現在の既得権保持者は誰だ?

明日の日本のために今日我慢するべきは誰でしょうか。戊辰戦争後の長岡藩士の立場の人間は誰でしょうか。私は既得権を決して手放そうとしない役人や天下り官僚、族議員達、バブルに踊った経営者達こそ痛みに耐える立場の人間であると思います。まず、そういった連中が既得権を放棄して初めて構造改革が成功するのです。でも、残念ながらその連中は昔の長岡藩士のような高潔さを持ち合わせていないようです。

小泉首相の勘違い

小泉首相は、国民は痛みに耐えなければならないと米百俵の故事を持ち出しましたが、先程私が紹介したように、これは大きな勘違いです。この米百俵の故事は、不況やリストラや失業に苦しむ国民に向かって話すべきことではありません。既得権にかじり付いている連中を説得する際に用いる故事なのです。 小泉さん、わかりましたか?


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