山本五十六元帥について

最近の若い世代の中には、日本が米国と戦争したことを知らない人もいるそうです。そんな皆様は当然山本五十六元帥も連合艦隊も知らないことと思いますので、山本五十六元帥のことを簡単に紹介します。

戊辰戦争

徳川幕府が倒れ明治政府が成立する時(明治維新)、新政府は会津藩を中心とする東北諸藩を侵攻しました。これを戊辰戦争といいます(1868年、明治元年)。中学高校の教科書には、東北諸藩が新政府に抵抗したために討伐したと記載されていますが、東北諸藩が新政府に反乱を起こした史実はありません。薩長(薩摩藩と長州藩)からなる新政府軍が何故東北諸藩を侵攻したのかわかりません。しかし、徳川時代末期の京都で、会津藩が、薩長の倒幕運動を取り締まったことに対する私恨から戦争を仕掛けたのだと言われています。

会津藩を始めとする東北諸藩にしてみれば、これは不幸でした。会津藩はそれが当時の職務だったわけです。薩長がそのような理由で侵略することに正義も大儀もありません。しかし、戊辰戦争で破れた東北諸藩は賊軍という汚名を着せられたのです。

この戊辰戦争の時、長岡藩は会津藩と共に新政府軍と戦い破れました。山本五十六元帥はこの長岡藩士の家に生まれたのです。 ちなみに、山本五十六元帥の祖父は長岡の城下町で戦死、父と兄は会津まで転戦して負傷したとのことです。この戦争の後に、有名な米百俵の故事が生まれたのです。

海軍へ

山本五十六元帥は明治17年(1884年)に長岡で生まれました。元武士といっても、敗戦のため経済的にはかなり困窮しました。現代に生きる我々は「賊軍」と言われても何も感じませんが、当時の人達にしてみればこれは大きな引け目となりました。山本五十六元帥はそれをバネに一所懸命勉学に励み海軍を目指しました。そして、米百俵ゆかりの旧制長岡中学(現県立長岡高等学校)から海軍兵学校に進み優秀な成績で卒業しました。

山本五十六元帥はもともとは高野五十六という名でしたが、優秀であったので、戊辰戦争で戦死した山本帯刀という家老の家の養子に迎えられました。ちなみに、五十六という名は、父親が56歳の時に生まれたから五十六と名付けられたと聞きました。

海軍軍人となってすぐ、日露戦争がありました。有名な日本海海戦(明治38年 1905年)では日進に乗船、左手と右太腿に重傷を負っています。

郷土想い

山本五十六元帥は海軍軍人として出世した後も郷土長岡のことを大切にし、機会を見つけては長岡に帰郷しています。また、長岡出身者の面倒を一所懸命みたとのことです。

連合艦隊司令長官、真珠湾攻撃

山本五十六元帥は、当時戦艦中心の海軍の戦略思想の中で、航空機の重要性を早くから主張し、戦艦大和建造に反対していました。また、三国同盟や日米開戦にも反対していたにもかかわらず、太平洋戦争海戦時には連合艦隊司令長官として、海軍の指揮をとる立場にいました。そして、昭和16年(1941年)、日本の機動部隊はハワイの真珠湾に停泊する米国太平洋艦隊を空襲し、太平洋戦争が勃発しました。

戦死

開戦当初、優勢だった日本海軍は、昭和17年6月(1942年)ミッドウェー海戦で敗北した後劣勢となりました。

昭和18年(1943年)4月18日、一式陸上攻撃機に乗り前線視察中に、米国の戦闘機の待ち伏せにあいソロモン諸島にて戦死しました。米軍は日本海軍の暗号を解読しており、山本五十六元帥の行動をすべて把握していたのでした。山本五十六元帥は戦死時海軍大将でしたが、戦死により海軍元帥に昇進しました。


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